昭和五十六年一月十二日 朝の御理解


御理解第七十八節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」


 どんなに素晴らしい御祈念を致しましても、どんなに大きな願いを立てましても、それが願う人の心、願う人の信心、それが神のまず気感に適わなければ願いが願いとして、本当な成就にはならないと思うです。
 ここでは人間と身代と健康と、こうある。それが三代続いたら神の気感に適うた氏子とおっしゃる。人間と身代と健康とが頂けるような、その元というのは、その人のいわば信心如何でありますけれども、その信心が神の気感に適わなければ、いうなら神様のお心に適わなければ、それが、なら人間身代健康と三代続くような、その元になるところのものがきちっとしていなければ本当の神様の気感に適うたおかげの成就という事にはならないと思います。
 昨日は、三日の梅の実会が、三日は皆さんが出にくいからと言うので、そう決まっておったそうです。それで、昨日が初の会がございまして、昨日はおそらくお正月のしるしなんかがあったでしょうから、朝から皆集まっておられたようですが、午後の研修の時に、皆さん一人一人の発表を、まあ聞かせて頂きましたが。
 先日、中村先生のところへ、あの新田原の堀内さんの息子ですね、良一君、小学校五年生ですか。が、あの色紙を自分が神様に頂いたとおりのものを書いて持って来たという話を聞いておりましたが、昨日それを持って来ておりました。見事に書いているです。
 宝船。そして神様から頂いたその御教えが、「宝は心の的」と頂いたそうです。私は、これを頂いてから、もう本当びっくりするやら恐れ入るやら致しました。勿論、意味が分かるとは思いませんです。けれども、昨日の御理解を頂いておって、それを見せて頂いたから、ひょっとすると昨日の御理解を頂いていなかったら、私も意味が分からなかったかもしれんと思いました。
 宝は心の的と頂いている。宝船ではありますけれども、宝の大きな帆の中にと。宝船ですから、真ん中に宝という字が書いてありますけれどね、それが心という字が書いてあったという。だから絵にもやっぱり◯に心を書いている。宝船。そして横に、まあ賛を書くように書いてありますのが、「宝は心の的」と。たいがいな所で、いうなら心を先に持ってくるとこでしょうけれど、そこが神の叡知ですね。
 まあここでは信心を求める、信心を頂かにゃならんね。おかげはそれについてくるもんだと。だから、おかげおかげと言うて御利益信心になってはならないといったように言いますから、宝というのは、勿論結局おかげに通じますからね。
 けれどもね、そのおかげそのものが、その人の信心のバロメーターだという意味なんです。だから宝の方が先に、宝は心の的である。自分がどんなに良い信心をしていると思うても、立派な事を言うておると思うても、もし宝がそれに伴わなかったら、それはおかしいぞ、昨日の御理解なんです。これが本当だ、これが本当だと。どんなに、なら高度な事を言うておっても、おかげの伴わないものなら駄目だ。
 結局本当から本当を求める。なら、今思うておる本当は、もう明日は本当ではないかもしれないけれども、それが本当なものであるならば必ずおかげが伴う。程度の低い、いうなら本当。それから程度の高い本当。いろいろある。それこそ雪に変わりはないという、あの御理解。けれどもそのところ、その時点でおかげが伴わなければね。金光大神の素晴らしいのは、親鸞上人は晩年になるに従って、もうこの世の中には本当な事はないんだ。自分が言うてきた事も、みんな空言だと。この世に真ある事なしという事になっていった訳ですね。
 けれども同じ事であっても、いうなら本当から本当を求めていっておる。それが本当である証拠に必ずおかげが伴うておるという事。金光教の信心は。だからやっぱり本当だけれども、けれどもまあだより本当があるんだと、そう言う。だから、この本当におかげが伴うおかげそのものが宝なんだと。その為と、だから自分の心のいうならバロメーターになるものなんだという事を一口でずばり言ってる訳ですね。
 宝は心の的と、こう言っている。もう本当に何が嬉しいとか何が有難いとか言うても、ならここではです、皆さんが信心のいうならここで教えに基づいて、そしておかげを表していかれる事程、取次者として有難いと思う事はありません。それは、いうならばでけません。でけませんけれども、そこに神様はでけたかのようにしておかげを下さる。
 昨日は福山から参って来た人だったでしょうか、あの福引を引いたら竹和というのを引いてあった。竹輪。蒲鉾のあの竹輪なんです。結局竹(ちく)というのは竹(たけ)という字が書いてある。輪(わ)というのは和賀心の和(わ)が書いてある。直(すなお)で、そして心が和らいでおるという、そういう信心を目指していく限り神様がそれこそ向こう先見ておかげを下さるというのです。
 本気で素直になろう。本気で和の心を頂きたい。和らぐ心を頂きたい。例え出来なくても、それを本気で目指しておると神様がね、その竹和がでけたかのようにして向こう先を見ておかげを下さる、という訳なんです。だから本当な事をね、いうならば目指して本当な事に取組むという姿勢がでけたらおかげになるです。その姿勢を崩したんでは。
 昨日は、佐田秀記先生が司会をしとりましたが、まあ本当に見事な司会をしとります中で言っておる事が、合楽で私共がこうやって修行させて頂いておる。ここで合楽理念の体得、合楽理念の実験実証、力を頂くという事は、合楽では朝昼晩の御祈念に出て、三時の研修に出て来て、これだけの事が、ここの修行生ででけたら、合楽理念はほっといても自分の身に付くと言っております。
 私は、これを聞いて素晴らしい事だと思いました。特別火の行水の行するこつもなあもいらん。ところが、只それだけの事が本気ですりゃ誰でも出来る。その事がでけない人が多いのです。朝と昼と晩との御祈念に出て来て三時の研修に出て来たら、これを欠かさず繰り返しておったら、もう何時の間にか合楽理念は身に付いてくる。実験実証もでけるんだという事を言ってるんです。
 又、これだけの事が真面目に出来ているなら、ここでならば私の心に適うです。絶対に適うです。いうならば親先生の気感に適うです。私は、他の事は求めん。他の事がどうこう言う事はない。只、合楽で修行するなら、これだけの事はでけじゃあこてという事がでけんような事では、本当な事にゃならんという意味の事を、まあ佐田先生が言って、これは自分自身が実験しとりますから、自分自身が朝昼晩の御祈念を大事にする。必ず三時の研修には出て来る。たったそれだけの事。これだけの事がきちっとでけていくならばです、もう合楽理念はそれだけで身に付いてくるんだと。
 合楽理念が身に付き、血肉になったらどういう事になるかと。それこそ人間の幸せの条件が足ろうてくるだけではなくて人が助かる。自他共に助かっていく道が開けるんだと。
 成程、合楽では例えば一ケ月、二ヵ月修行する人がありますが、ほんなこてですね、もう見違えるごつなって帰りますもんね。そんなこつを実行するからです。それを、なら五年十年としていくなら、もう力になり徳にならないはずがないです。
 まあ末永先生なんかが、ひとつの良い見本でしたですよね。私は一番、もう朝目が覚めてから、最近有難いと思う事は、私が三時に今起床致しますから、三時に外を開けると、もう御神燈がついて御神飯がちゃんとお供えある事です。三時に戸を開けると、もう廊下の電気がついていて、御神燈がついていて、そしてもう御神飯がお供えしてあるです。
 こりゃ幹三郎の嫁がここへ嫁とならせて頂いたその時から、この事を願い出まして、これを実行させて、そげん三時頃から御神飯お供えせんでん、こっちの四時それでええばいち思うです。けれども本人が一生懸命ですから、まあ御取次させて頂いたんですけれども、三時にはちゃんと御神飯がお供えしてあります。御神燈がついとります。廊下には電気がもうついとります。もう、それだけで私は、もう兎に角第一番に有難くなります。そして私が奉仕着を付けて御祈念をしとりますと、御祈念中に幹三郎が必ずやって来ます。もうこげな嬉しい、こげな有難いこつはないです。これを欠かさないです。間違いないです。もうこれだけでも、あの人達夫婦が私の気感に適うという事。そりゃ、もう本当に感動いっぱいの日々を過ごさせて頂いとるからでける事でございますけれどもね。これとても本気でやろうという気になりゃでけん事ないとです。
 新聞配達、私共が少年時代に新聞配りをしましたが、もう四時にはちゃんと新聞取りに行かなきゃなりませんでしたからね。それこそ豆腐屋さんが二、三時に起きなさると同じ事です。もう、それば本気でやろうと思うたらでけんこつはないです。それを五分遅れたり十分遅れたといったようなしだごだな事が、例え続いておっても、これは何時まで経っても神の気感に適わない。根本のところ。
 私はね、今日は人間と身代と健康とが揃うたら神の気感に適うた家庭、家族としてと言うておられるが、そういう気感に適う根本の所が、これだけはこの人は間違いがない、それも難しい事じゃない。合楽に、例えばお道の教師を志して合楽に修行に来る。ならば、朝昼晩の御祈念に位出て来れないような事で修行、他に何もなかっじゃけん。ここには自分達の部屋どん掃除する位のこつじゃけん。こりゃもう教会行事が沢山ございますから、それにゃ、さあ宅祭りがあったり、霊祭があったりすると、各々が当番がございますから、まあ参りますけれども、大体の修行は今言う、朝昼晩のいうなら勤行と、いうなら三時の研修です。これがきちっとでければ、それこそほっといても、合楽理念は必ず血に肉になると佐田先生が言っておるように、こりゃもう自分の体験だろうと、こう思うです。
 合楽の信者でございます。合楽の信奉者でございますと言うなら、これこれだけはきちっとでける。そこにいうなら神の気感に適うと。いうなら、なら親先生がこの人だけは間違いないと、例えばこう太鼓判を押すような生き方在り方というものがでける。これが、私は神の気感に適う第一歩だと、私は思うですね。
 なかなかよか信心するばってん、この人ばっかりはここん所がどんこんでけんもんのち言うごたるこつでは、何時まで経っても気感に適わんです。だから信心よるけんおかげは頂いても、それが基礎、元になってないです。三代続いてというような神の気感に適う氏子といったような事にはならないと思う。
 私共がね、いうならば心ひとつですべてを創るとこう心を第一に言われますけれども、その心ひとつですべてを創っていく過程に於いてです、宝は自分の心の的だと。おかげは自分の信心のバロメ-タ-だと。どんなに有難いの、どんなにと言うても、そこんところに生き生きとした神様のおかげと思わずにはおられないおかげがそれに伴うてきておるならばです、その心の状態はいよいよ育っていき、いうなら高度な心という事に、本当から本当を求めていく精進をしていけばよい事になるのです。それにやはり、やっぱりそのきちっとした信心修行がでけるという事には感動なしにでける事ではないと思う。ただ空威張り、空威張りというですかね、いうならしいら元気と言うでしょうか。本当な心ではない心で、ひとつ頑張ろうと言うただけでは続かないと思うです。
 昨日幹三郎の嫁が、昨日は今度結婚しました、その嫁さん達、皆若い嫁さんばっかりの会ですから、昨日参加しとりまして一人一人皆発表しとりました。中で幹三郎の嫁が発表しとりましたが、兎に角私が元使っておった部屋を、もうそのままなんです。もう兎に角親先生が使うておられたお部屋。そして親奥様が使うておられた、あのお道具をそのまま使わせて頂くという事が、これだけで感動いっぱいですと言うて、もう声になって話にならん位に感動して、あの発表しとりましたがね。
 そういう感動があって、あの人達夫婦のなら信心が、その感動の上に立っておるというところに、私はでけないと思われるような事がでけてくるのじゃないだろうかと。むしろその事を、そして有難いというふうに頂いとるのじゃないだろうか。それに、それこそぱっちりと神の気感に適う在り方がでけて、これが育っていって、それが親、子、孫と三代続くというようなおかげを頂く一番最もの所、一番元の所をね、あの頂いていってると思うです。
 自分達の信心の、その元である所をひとつ思うてみて、自分の気分の良か時にゃ神様に向かう。気分の悪か時にゃ何時に間にかすとっと信心な落としてしまうといったような事では、なら神の気感に適うといったようなお徳は頂けるはずはないです。
 それにはね、結局私共が日々です、宝はいうならば心の的。その的をどこに置くか。普通は心と言われる訳ですね。心は信心の定規じゃによってと、教祖も言っておられる訳。ところが良一君、良太郎君が頂いておるのは、だから宝を的にしてあるです。宝は心の的だといってる訳です。これが一番間違いないのです。だから答が出てくるんですから、その答をふんまえながら信心を進めていくという事になってくる。本当から本当をいよいよ求めていく。
 私は、今日は神の気感に適う、気感という事をですね、この生き方をもってするならば、神の気感に適うという、その何かを自分の信心の信条にでけるものを、あれもこれもという訳にはでけません。
 なら、私の子供達が、幹三郎の真似を皆するという事はありません。若先生は若先生で、光昭は光昭で、これは光昭だけしかでけない。これは若先生だけしかでけないというところを、いうなら親が信用してくれる。親が喜んでくれるようなばっちりしたものを、いうなら頂いて、それを間違いなく行の上に表して信心を進めていくというような生き方をね、ひとつ身に付けたら有難い。必ず宝がその信心に影の形のように伴うてくるおかげにもなってくるだろうと思います。
 先ず神の気感に適う。それがね、いうなら神の気感に適うという事は、神様をちょっと喜ばせるというような事じゃなくてです、間違いのない喜ばせ方というか、気感に適う生き方というものを、各々ひとつ工夫してみなければいけないと思うですね。どうぞ。